人生の本番はこれからだろ?

やっと70歳になった。少し人生の何たるたるかが見え始めた。本番はこれからだよ。

「慰安婦について」ねずさんのひとりごとより

 

「ねずさんのひとりごと」でわたしは日本史と言うより国史を学ばせてもらっている。

学んでいくうちに自分の中に精神的な体幹が育っていくのを感じ始めた。

それは右とか左とかの問題以前の日本人という存在としての依って立つところをやっと見つけたという 自覚につながった。

足場がしっかりすれば、自分なりにも責任を持って取捨選択をできるようになった。

今日の慰安婦問題については、ねずさんの真摯な意見は傾聴に値する。

以下、ねずさんのひとりごとより転載する。

 

 

 

慰安婦問題について、韓国や国内でそれに同調する左翼や在日コリアンに、腹を立てておいでの方は多いと思います。

私もそのひとりです。 強制的に慰安婦にしただの、性奴隷にしただの、そういう主張をしている者たちのただの

欲望でしかないのでは、とさえ思います。

所詮は、ねつ造、でっちあげのとんでも主張であり、千年経っても恨みを忘れないどころか、千年経ってもでっちあげは

でっちあげ、嘘は嘘です。あたりまえのことです。

こうした言いがかりに対して戦うには、相手の主張に対して証拠を挙げて反論したり、あるいは相手の主張に対して、

その信憑性の嘘を暴くといった対応は、もちろん不可欠です。 あるいは裁判をするといった対応も、必要であろうと思います。

ただし、この問題は、すでに韓国にとっては、国家的糾弾です。

単に韓国の一部のメディアや学者たちがそのように言っているという問題ではありません。

彼らは、国をあげて、国家の広報や諜報部隊の総力をあげて、慰安婦問題をあげつらい、日本を貶めることに、

まさに血眼になっているわけです。 ですからこの問題は、両国が話し合って解決がつく問題ではありません。

そもそも韓国の大統領が先頭に立って、日本を貶めるための告げ口外交を展開しているのです。

今さら、真実がわかったところで、彼らがその主張を取り下げることなど、絶対にあり得ないと知るべきですし、

今後彼らは、ますますその主張をエスカレートさせていくことと思います。

こうした韓国に対して、「韓国が政府資金をふんだんに使って慰安婦問題はあったとするプロパガンタを

展開している以上、我が国もこれに対抗的に反論を英語その他他言語で世界に向けて堂々と情報発信すべし、

という議論もあります。私もそれは必要だと思います。
 

 

ただし、それをやったら、問題が解決するかというと、それは疑問です。

日本の反論が激しくなればなるほど、逆に彼らはますますその政治活動をエスカレートしてくるで

あろうことは自明の理だからです。

では、日本はいったいどうしたら良いのでしょう。

韓国と話し合いますか?

話し合いは、当事者双方に、話し合って解決しようという具体的に意思がなければ、いくら話し合っても問題は解決しません。


証拠を出せば、と思われる方がいるかもしれませんが、いかなる決定的な証拠が出されても、それを無視して言い張る相手に、

話し合いなど通用しません。

では、話し合って解決しないのなら、次にどうしますか?


国際司法裁判所に訴えますか?


米国の裁判所に訴えますか?

国際司法裁判所は、ご存知の通り、当事者を出頭させる強制権がありません。


国内の裁判所なら、出頭しなければその瞬間に敗訴が確定しますが、国際司法裁判所は、

そもそも呼び出しに応じる必要さえありません。


「あったことをなかったという裁判など請ける必要もない!」と強弁していれば済んでしまうのです。

米国の裁判所に訴えても、個別案件には勝訴できたとしても、他の案件にまで強制力はありません。


それにそもそも相手は国家プロジェクトなのです。


向こうはありとあらゆる政治資金を使って、こちら側の弁護しさえ巨額の資金で買収することさえ平気な連中なのです。

では、どうしますか?


話し合って解決しないなら、戦争しますか?

戦争は、武力だけではありません。


経済封鎖や貿易のボイコット、国内に住む当外国人の財産の差し押さえ等々、方法は様々です。


そしてそもそも、この問題は、情報戦争という立派な戦争なのです。


つまり、現時点で、すでに戦争は始まっているのです。

ところが日本はどうでしょう。


武力を用いた戦争は、憲法でこれを禁じています。


国際紛争を解決するための武力行使は、永遠にこれを放棄すると、最初から歌っています。


向こうにしれみれば、いくら殴っても、絶対に殴り返さないという保証書付きの相手なのです。


もし殴り返してきたら、それこそ「国内法さえも破って暴力を振るってきた」と、よりナンクセをエスカレートさせることができる。

つまり、思うつぼになるわけです。

では、武力を用いない戦争はどうでしょうか。


経済封鎖を日本国政府は行うでしょうか。

 

 



日本国政府というのは、その本質は日本国民のための政府ではなく、「日本国内に置かれた米国の

占領統治のための傀儡政権」です。


これは、安倍総理のご努力や、歴代総理、あるいは代々の国会議員さんのご努力や資質のことを言っているのではなく、

そういったおひとりおひとりのご努力や資質以前の問題として、そういう性格のものだということを申し上げています。


同じようなディスプレイとCPUを持つパソコンでも、OSがWindowsなのかmacなのかによって、その性格はまるで違います。


どんなにできの良いアプリや、凄腕のユーザーであっても、OSが違えば、そのOSの範囲でしか動けないのです。
 

 

そして米国の利害は、対中戦略において、日韓は並列の位置にあります。


そして米国が率いる「United Nations(旧称:連合国、別称:国連)からすれば、日本は「敵国」であり、

韓国は、まさに「United Nations」によって作られた国です。


その立ち位置は、むしろ韓国に有利であって、日本には劇的に不利なものです。
なぜなら、「敵国」である日本には、「United Nations」の安全保障理事国は、いついかなるときでも、

無条件で武力を行使しても構わないことになっていて、その安全保障理事国のひとつが中華人民共和国だからです。

それこそ米国の理解を得ない韓国への経済封鎖は、日本は世界に向けて「武力を行使して攻めて下さい」とお願いするようなものです。
 

 

では、情報戦争ではどうでしょうか。


韓国は、慰安婦強制と性奴隷はあったといい、日本は、なかったと主張します。


ところが実際には、朝鮮戦争時代に韓国政府は自国民の女性に対してまさしくこれをやっていますから、

韓国内では「あった」のは事実です。


ただ当事者が日本でなく、韓国政府であったというだけのことです。


その「韓国政府が」という主語を付け替えるだけで、彼らにとっては国をあげての生活実感をともなった

「真実」となるわけです。


そして「あった」とする政治運動をする者たちへは、韓国政府が豊富な軍資金の援助をしています。

 

 

 



これに対し、日本国内はどうでしょう。


多くの国民にとっては、他人事。メディアは反日を正義とはき違え、具体的にどことは言いませんが、

むしろ韓国政府の方を持つことで、なんとかして韓国政府からの資金をもらおうとする。


国会でも一部の議員は、むしろあったといって騒ぐ。


民間で必死になって防戦を張ろうと努力しても、政府の応援など一切ありません。
 

 

国家規模での経済力も、情報力も、国力も、圧倒的に日本の方が強いけれど、彼らは国をあげて言い張っているのに対し、

日本側は、ごく一部の国民による団体等とわずかばかりの議員さんたちによって、手弁当での抵抗が続けらているだけです。

しかもお人好しの日本人は、分断工作に簡単にひっかかり、運動もなかなか一本化しないというていたらくです。
 

 

繰り返しになりますが、韓国は(これは中共も同じだけれど)、国をあげて対日戦争をしかけてきているのです。

なぜなら、日本は、叩けば叩くほど、いくらでもお金が出てくる、まさに「打出の小槌」だからです。
 

 

 

では、どうしろというのか、とお叱りを被りそうです。

私は、彼らのいい分に対して、もちろん存分に反論していかなければならないと思っています。

でなければ、日本はもっと追いつめられます。

けれども、それだけでは、おそらく何も解決しないと思います。

なぜなら、彼らは「あった」と言い続け、我々は「なかった」と言い続ける。

その言い合いに終止符を打つ方法は、ただひとつ、日本が、彼らに鉄の制裁を加えることだけだからです。

けれども日本は、決してそういう選択をしないし、おそらく日本国民の誰一人、韓国との戦争を望んでいる

人などいないと思います。

むしろ、多くの国民は、韓国と、どうやったら、隣人として仲良く暮らすことができるのだろうかということしか、頭にないからです。
 

 

 

では、どうしたら良いのでしょう。

話し合いもだめ。戦争もだめ。

さりとて、このまま放置することもできない。

第三の道はないのでしょうか。
 

 

 

私は「ある」と思います。

 

 

この問題の本質にあるのは、シラス国とウシハク国の対立です。

ウシハクは、「主人(ウシ)が佩く」で、「佩く」は、大刀を腰に穿くというときの言葉で、身につける、転じて、

私有物にするということです。

つまり、主人が国民を私物化し、利用して自分の利財を図る。それがウシハク国です。

こうした治世にあっては、主人となったものは、国民の利益を独占しますから、そこに富が集中します。

重ねて主人(権力者)は、その権力の行使を絶対的なものとしますから、国民は言いなりになるしかありません。

つまり国民は、ただの奴隷とされるわけです。
 

韓国の旅客船の沈没事故に際して、多数の犠牲者となった方々は、船長などの「その場を動くな」という指示を守って、

室内に残り、結果、尊い命をなくされました。

日頃、うるさ型の多い韓国人が、どうして沈没まで1時間もかかったのに、船長の指示を守ったのか、そのところは、

不思議に思われた方も多いかと思います。

けれど、これは韓国社会では、あたりまえのことなのです。

彼らは上下社会です。

船においては、船長や船員の指示が絶対のものとなります。

ですからもし指示に逆らって、自身の身の安泰を図る、つまり船室から出て海上に避難できる位置に移動するとなれば、

後日その責任を追及され、「お前が出たから船が転覆したのだ、すべてお前のせいだ」と罪をなすり付けられ、

社会から徹底した苛めに遭うことになる。

その恐怖があるから、出るに出られない。

これがウシハク国です。
 

 

もし同じような事故が日本であれば、そもそも船長以下船員たちが先に避難するということ自体、日本ではあり得ないけれど、

多くの乗員たちは、船員たちの指示を振り切って早い段階で外気に触れる場所に出て、たすかっていたことと思います。

東日本大震災などで、整然とした姿でコンビニの前に並ぶ日本人、船室からさっさと避難する日本人、いっけんすると

まったく異なる反応に見えますが、実は、この二つは共通しています。

それは、各自が、各自の判断で動いている、ということです。

それが、ひとりひとりが高い教養を持ち、自己の責任で行動しようとするシラス国の特徴です。
 

 

ウシハク国では、国民は貧乏です。

なぜなら富はみんな施政者、権力者たちが独占するからです。

ですから大多数の国民は貧乏だけれど、上に立つ者は巨額の富を手にします。

そして巨額の富を独占していますから、その権力者の思いひとつで、巨額の政治資金が動かせます。

これに対し、シラス国は、国民ひとり一人が、決して贅沢はできないまでも、そこそこの生活ができます。

権力者も施政者も、国民と同じ人であり、富は分散されていますから、誰かが誰かの思いひとつで、

巨額の政治資金を動かすということもできません。
 

 

100人で100の富を得たとき、権力者ひとりが80の利益を独占し、残りの20を99人で分散するのがウシハク国。

100人で100の富を得たとき、みんなで1ずつ均等割するのが、シラス国です。

政治工作は、どちらが容易かは、一目瞭然です。

ですが、国民みんなの幸せを考えれば、後者の方がはるかに良い国であることも、これまた自明の理です。

日本は、神話の時代から、シラス国を目指してきました。

このシラスとウシハクは、大国主神話に出てくる言葉なのですが、その神話においても、ウシハク統治は、

ある意味においてたいへんに魅力的であることが説かれています。

ですから二度に渡って、大国主に使いに出た天孫の神は、ウシハク統治で金持ちの大国主の接待にすっかり取り込まれ、

任務を放棄して大国主の部下になってしまいました。

そして三度目の使いに立ったのが建御雷神(たけみかづちのかみ)で、彼は海の上に刀を逆さまにして立て、

その上に大あぐらをかいて、大国主に国ゆずりを迫り、大国主自慢の二人の子を打ち負かして国を譲り受けています。

これは、私は比喩だと思っています。

「海の上に刀を逆さまにして立て、その上に大あぐらをかいて」というのは、軍船を率いてやってきて、その船上で刀剣類を

逆さまにして立て並べ、船上で大あぐらをかいて、大音声で国ゆずりを迫った」ということなのではないかという気がします。
 

 

ともあれ、こうしてシラス国とウシハク国の違いと、ウシハク国の怖さ、そしてシラス国の大切さが神話に説かれて

いるわけですが、昨今の韓国の行状は、まさに韓国の施政者たちが、己の利権を狙って、自由を奪った民衆を動員して、

異論を許さずに反日に傾斜しているわけです。

現代世界において、いまだ、このようなウシハク統治が公然と行われているという現実は、まさに驚くばかりですが、

韓国は、古来、そういう国ですし、そもそもの建国自体が、日本によるシラス統治によって、特権階級の両班たちが、

その特権を奪われた「はらいせ」につくったのが、いまの韓国でしかありません。

日本は、いま、こういう国から、武器を使わない戦争をしかけられているわけです。

そういうウシハク韓国の慰安婦攻撃に対して、日本は、猛然と反論しなければなりません。

しかし、それだけでは、実は片手落ちで、日本とはどういう国なのかという文化面での日本の情報発信力が、

いま、本当の意味で問われているのだと思います。

日本が二千年以上に渡って行ってきた統治は、どこまでも民衆をこそ「おおみたから」とする統治でした。

そしてすべての国民を、天皇の臣民とするという統治でした。

ですから、このことが律令制度として確立された大化の改新以降は、日本からは、生口(せいこう)と呼ばれた奴隷階層は、

完全にいなくなっています。
 

 

 

そして、問題の売春婦にしても、かつてはこれを「春を売る婦人」と呼び、戦時下においては「兵隊さんたちを

慰め安心させる婦人」という名称を与えてきたのが日本です。

そもそも、日本語で売春と呼ばれる行為は、支那では「売淫」と書きます。

「淫」という字は、膣の中に精液を入れるという意味を持つ字ですから、それを売るというのは、まさに読んで

字のごとしであり、きわめて動物的です。

さらにいえば、売春婦たちは、隠語では、「ピー」と呼ばれていました。

ピーというのは、女性の性器そのもののことを指す隠語です。

つまり、女性たちを、まったく「人」として認識していず、ただの性器としてしかみなしていないということが、

こうした言葉が如実に物語っています。

最近の韓国が主張する「性奴隷」も同じです。

まさに性の奴隷であり、奴隷というのは古今東西、報酬も人権もなく、ただ使われるだけの存在ですから、

その言葉には、わたしたち日本人なら誰もがびっくりするような女性蔑視、人権無視が言葉に隠されています。
 

 

 

ところが日本ではどうでしょう。

先に述べましたように、売春は、「うららかであたたかな春を売る」というのです。

遊郭」は、楽しく遊ぶための建物であり、「花魁(おいらん)」は、美しい花のさきがけ」、「遊女」は楽しく遊ぶ女性、

吉原などの遊郭にいた「太夫(たゆう)」は、恵まれたスポンサーのある女性という意味です。

どこにも性のかけらもない。

あくまで、女性たちを、人として見ているということが、こんな言葉からもわかります。
 

 

さらにいえば、朝鮮半島でも、支那大陸でも、売春宿では、年頃の女性を連れてきて、

その日から性行為をさせています。

稼ぐために連れてきたのです。これは彼らにとっては当然のことであったことでしょう。
 

 

ところが日本は、女性たちは6〜7歳で遊郭に連れて来られました。

幼児売春のためではありません。店に出て性行為の仕事をするのは、17歳になってからです。

それも22歳までの5年間だけです。
 

 

 

商売のためなら、年頃の女性を連れてくればよさそうなものを、どうして6〜7歳の女の子を連れてきたかと

いえば、6〜7歳から17歳まで、まる10年間、お店では、たいへんな経費をかけて、女の子たちに、

読み書きソロバンから、小唄、三味線、お琴、長唄、都々逸、小堤、太鼓、絵画、和裁、お花、お茶など、

ありとあらゆる教育を施していたのです。

なぜかといえば、女の子たちには、5年間、お店のために商売をしてもらわなきゃならない。

そのかわり、お店を出たあと、この子たちが一生食べるに困らないだけのことは、お店として、きちっとしてあげようとしたのです。
 

 

女の子たちは、もちろん売られてきた子たちです。

そしてまる10年間、お店で衣食住の面倒をみてもらうだけでなく、高いレベルの教育を受けさせてもらいます。

10年経ったときには、たいへんな借金ができています。

けれど、商売に出ることで、たいていは最初の1〜2年で、どんな女の子も、お店からの借金は全額返済してしまいます。

(このことは、慰安婦の給料を考えてもわかることと思います)。

そのあとは、もっぱら貯金です。

ですからお店に出て5年経って卒業する頃には、クニに帰って料亭の1件、2件建てれるくらいの

蓄えができていました。

世界中、どこを探しても、売春婦たちが、生涯食べるに困らないだけの教育と蓄財を与えたクニというは、

ないと思います。
 

 

では、なぜ日本は、そのような手厚いことをしたのでしょう。

答えは簡単です。

すべての民は、日本では、天子様のおおみたから、なのです。
つまり、お店の女の子たちは、天子様(天皇陛下)からのあずかりものであり、親御さんの

たいせつな宝物なのです。

それをお預かりしているのです。

ですから、出来る限りのことをしてあげる。

それが日本です。
 

 

だからこそ、戦時下においても、なるほど、朝鮮人の女衒たちが、兵舎の近くに売春宿を作りました。

その売春宿を、わたしたち日本人は、売淫宿ではなく、昔からある売春宿でもなく、兵隊さんたちのための

慰安所と呼びました。
 

中で行われるのは性行為かもしれません。

けれど、そこにいる女性たちへの意識は、あくまでも人の子であり、男性と対等な女性であるという共通認識が、

私たちの父祖にはあったのです。

だから、慰安所と名付けていました。
 

 

日本人が、慰安婦(売春婦)を、見下したり性奴隷のような存在などとはまったく考えていなかった証拠には、

これはねず本の第二巻に書いたことですけれど、総理大臣や、藩の要職の人の妻が、もとはそういう女性であったと

いう事例さえも、あるという事実がこれを証明しています。
 

私なども、子供の頃、粋に和服を着こなしている、ひどくかっこいい中年の女性などを見たことがあります。

ある芸事のお師匠さんですが、生徒さんたちからも、町内でも、たいへんに尊敬されていたこの女性の和服の

着こなしの見事さや、仕草の艶っぽさ、そして周囲に対する気配りや、小唄や三味線の巧さ、町内の頑固親父たちを

手なづける手腕の見事さに、祖母は、「やっぱり玄人さんだった人はちがうわねえ」と、悪い意味どころか、

大変な尊敬さえもしていました。

たしかに、子供の目からみても、すごいおばさんだった。
 

 

慰安婦や淫売どころか、「玄人さん」ですよ。尊敬さえされていたのです。

職業に貴賤は、これは、あります。

人の好む仕事もあれば、人の上に立つ仕事もある。

ということは、人の嫌がる仕事もあれば、人の下になる仕事もあるわけです。

けれど、どこまでも人としては対等。

それが日本の文化です。

日本文化は、あでやかな歌舞伎や、江戸の和風絵柄、呉服や桜や紅葉や富士山ばかりではありません。

こうした、対等という精神文化や、その原点となっている「おおみたから」という文化も、まさに日本を代表する文化だし、

こうした、むしろ戦前までの日本では、「あたりまえ」とさえ思われていただけの文化そのものが、まさに、いま、

世界が待ち望んでいる真の未来を切開く素晴らしい文化性であるのはないかと思います。
 

 

そしてそういう日本人の文化性を、ただ慰安婦議論に反論するだけでなく、同時に日本の持つ文化性を世界に

訴求するとき、世界は目覚め、この慰安婦論争にも終止符が打たれるのではないかと、私は思います。
 

 

パリで行われたジャパンフェアでのアニメ博でもそうでした。

韓国は国費を使ってまで、ジャパンアニメ博に乱入し、ブースを構え、そこに慰安婦アニメを展示しました。

けれど、少し考えたらわかることですが、アニメというのは、人々の欲求や欲望や願いを形にしたものです。

つまり、慰安婦、性奴隷をテーマにしたアニメというのは、結局のところ、それを「したい」と願う欲望が、アニメという形に

なって生じているものに他なりません。

つまり、慰安婦、性奴隷アニメというのは、それ自体が、それを展示している人たちの欲望そのものであるということに他ならないのです。

そういうものを、韓国が国をあげて展示したいのなら、私は展示させてあげれば良いと思う。

我々は堂々と、「アニメはその国の人々の欲望や欲求、願望を形にしたアートなのです」と、パンフなり講演なりで、

主張すれば良いのです。

だって、それが本当のことです。

世界は馬鹿ではありません。それで実は、底流に何があるのか、バカでもわかるし、その証拠はライダハンをはじめ、

世界中で彼らがしでかしている強姦事件や売春行為など、いくらでもある。

問題は、私たち日本人自体が、そういう日本文化の素晴らしさ、ありがたさを忘れ、ある意味、朝鮮人と同じレベルになって、

対立と闘争の世界にはまり込んだり、あるいは意図的に日本が隠し事をすることで、かえって疑われるようなことを

しているという点にあるのではないかと思います。
 

 

私たちは、堂々と、日本はこれこれこのような文化を持っている国であり、そのことは昔も今も何も変わっていないと、

主張していくことが必要です。

そのことこそが、世界の人々の大いなる呼び起こし、世界に新しい善の潮流を招く原動力になるものです。

そして日本が堂々と日本の文化性を主張し世界の理解を得たとき、いま韓国が国をあげて行っている

慰安婦問題など、あまりにも不埒で程度が低いものとして、世界から唾棄されるものとなると思います。
 

 

 

日本の文化は、「対立と闘争」ではありません。

日本の文化は、天皇とおおみたから、そこから発した、和と結いと対等意識にあります。

そういうことを、堂々と私たちはこれから、世界に向けても発信できる国づくりをしていかなければならないと思うのです。

わたしたち日本人は、たとえば世界の人々が集まる会議に、少し遅刻して会議室に入れば、「I'm sorry.」と言います。

なぜそういうかと言えば、遅刻したから、みなさんに迷惑をかけたと考えるからです。
 

 

ところが、そうしたことは、世界の人々には奇異に映ります。

なぜなら、対立と闘争の社会というのは、いってみれば学年テストの点取り競争みたいなもので、

個人と個人は全て敵同士です。

ですから遅刻したなら、それによって会議のはじめの5分の情況を知り得なかったペナルティは、遅刻した本人が

負っているわけで、他の人はそれだけ有利になっているわけですから、別に人から誤られる筋合いはないし、

自分が遅刻したからといって、謝る必要もないと考えるからです。
 

けれど私たちは、集団の協同を大切にします。みんなと常に対等にありたいと願いますし、みんなが遅刻しないように

集まったのに、自分一人だけが遅れたなら、それはみなさんに迷惑をかけたことになると普通に考えます。

だから、「I'm sorry.」と言います。

そういう、理由を、はっきりと説明する。

その説明責任は、日本人の側にあるのです。

なかでも韓国についていえば、韓国では、欧米のような神のもとの平等という意識すらない儒教社会です。

儒教社会というのは、上下関係しかない。

上か下か、すべての価値観は、それによって定まるという社会です。

そして上に立つためなら、何をしても許されるし、上に立ってしまえば、下の者にいかなる無理難題を押し付けても

文句を言われる筋合いはないと考えます。それが彼らの思考回路です。

支那に対しても、韓国に対しても、日本は、他の国ではあり得ないような善政を施し、戦後もあり得ないような

金銭的あるいは技術的援助を惜しみなく与えています。

日本人は、それによって彼らが、我々と対等な民となって、豊かな生活を享受できるようになればそれで満足だからです。
 

 

ところが彼らには、対等という概念がありません。

カネや技術をくれるなら、それは上の人であり、上の国です。

上に立ったなら、下からは、略奪や指示をしてくれるのが当然と考えます。

けれど、日本は、上には立とうとしない。あくまで協同の国だからです。
 

しかし、文化の異なる彼らには、それが理解できません。

上か下かしかないからです。

そして「上でない」なら、「下」でしかないのです。

だから、日本は下であり、下ならば、貢のはあたりまえだし、賠償するのもあたりまえだし、謝罪し、

カネを払うのがあたrまえ、となります。

ですから彼らは、日本を露骨に見下し、ゆすり、たかります。

それが彼らの文化なのです。
 

 

 

そしてそういう文化が一方にあれば、どこまでも和と結いと対等を求める文化がもう片方にあるわけです。

 

そしてこの二つの文化の衝突が、慰安婦問題となって湧き出ているのです。

ならば、日本の選択は二つです。

韓国に対して、韓国の文化に倣って、威丈高になってあらゆる収奪を行うか、それとも韓国人を絶滅させるかです。

けれど、おそらくは、そのどちらも日本人は選択しません。

なぜなら日本には、威丈高になる文化も、相手を滅ぼすという文化も、日本にはないからです。

ならば、日本は、日本の文化そのものを世界に向けて明確に主張し、なぜ日本が彼らに謝ってきたのか、

また、どうしてそういう韓国に日本はお金や技術を出し続けたのか、その理由を明確に説明していく必要があります。

そしてそのことを、世界が、韓国民がどのように受け取るかは、日本人がどれだけ日本の文化について正しく理解し、

そこに自身と誇りを持てるかにかかっているといえます。
 

私たちはいま、国内で対立などしているヒマはないのです。

ましてや、国を護りたいという保守同士での対立など不要です。

それよりも、いかにして、和と結いと対等という日本的心を、世界に、そして国内に広げて行くかが、

いま日本人に課せられた最大の課題だし、回り道にみえるけれど、それがいまある問題を解決する

 

最大の近道なのではないかと思います。

戦前の世界は、まだまだウシハク世界でした。ほんのひとにぎりの植民地特権を持つ者たちが、世界の富を独占し、

その利権を守ろうとしていました。

シラス国日本はこれに敢然と立ち向かい、彼らの利権を破壊し、世界を「民衆のための世界」に一気に近づけました。
 

 

 

戦後70年が経ち、その間に多くの国々が植民地支配から独立し、民主的国家を形成しました。

植民地支配していた国々でも、民衆の力が増し、一部の利権者の思いだけでは世の中が

動かなくなってきつつあります。

戦前にはなかなか理解されなかったシラス国の素晴らしさが、ようやく世界の人々に理解される時代に

なってきたのだと思います。

逆に言えば、世界の諸国のレベルがあがってきたということもできます。
 

 

そうした中にあって、いまだに前近代的なウシハク社会にあって、民衆から自由な言論も自由な思考も

奪われたままになっているのが、支那社会であり、韓国社会です。

とりわけ韓国では、日本が統治時代に追い払ったかつての支配層である両班層が戦後復活し、国を営みました。

彼らには、かつて日本によって放逐され権力を奪い取られたという恨みがあります。

彼らが「千年経っても恨みを忘れない」といっているのは、慰安婦を題材にしているだけで、実は、

戦前の日本統治時代に、両班としての特権を奪われた、そのことを言っているのです。

日本が堂々と、日本の文化性を主張し、謝ったり話し合いを求めたりすることの理由をしっかりと述べることは、

彼ら朝鮮両班にとっては、彼ら自身の悪行を公にされることを意味します。

おそらく彼らはカネを使い、人を使ってその妨害工作をすることでしょう。
 

 

けれど、日本は、日本から武力で攻めることはしませんが、攻め込まれた戦う力を持っている国です。

そしてその戦う力は、韓国あたりが束になってかかってきたところで、まるで歯が立たないほど強靭なものです。

ですから、彼らも武力の行使はできないのです。

つまり、喧嘩を売るだけで、絶対に殴り合いの喧嘩には持ちこめない。

そこに彼らの弱みがあります。
 

 

 

そして彼の国では、彼らが表向き主張している慰安婦問題が、実はねつ造であること、実際にはそれは、

朝鮮戦争当時の韓国政府がやったことであることを知っています。

ですから、日本の考え方である、互いに仲良く共生して行くいうこと、日本人が謝ることは、罪を認めた

ことではなくて、和を大切にしたいと願ってのこと、そして窓口はいまでも開かれているということを、

ありとあらゆる機会を利用して、日本は国内に、彼の国に、そして彼の国が慰安婦像を建てようとして

いる全ての国々に、その宣伝と広報をしていく必要があります。
 

 

日本は、日本文化を国内に、そして世界に向けて粛々と、そして堂々と主張すべき時代に入ったのです。
 

 

最後に補足しますが、私は日本の文化性を内外に述べれば、慰安婦についての反論は不要だと

言っているわけではありません。

反論するだけではなくて、同時に日本の文化性をちゃんと主張しないと、内外からの理解は決して

得られないということを申し上げています。
 

 

これは、たとえは悪いですが、小学生に鶴亀算を教えるようなものなのです。

どうしてそうなるのかという説明をしなければ、理解は得られない。

そしてその説明義務は、むしろ日本の側にあるのです。

この努力を惜しんでいては、日本は永遠に世界から理解されない。
ただ、「言われたから反論する」というだけでなく、「なぜ日本はそのように考え、行動するか」という、

その考えや行動の背景となる日本人の文化性についての説明を同時にしていく努力を惜しんでいては、

ただ、対立するばかりで、永遠に白黒はつかない。

そのことを申し上げています。

このことをしっかりと認知していただきたく、今日の記事は「拡散」希望とさせていただきました。

 

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