守られているナ。

言うまでもなく、独り善がりだがそれもご愛嬌なり。 この僥倖を素直に頂こうと思う。

無論、自覚などないが、惟神(かんながら)の道をひょっとしたら歩いているのかしら。

 

この心配性は――不安神経症だったっけ――湯たんぽでやってしまった低温やけどの足首に残った黒ずんで

ややへこんでいる傷痕に似ていて、見るたびにぼくをしてよみがえらしめる。 もう心配はいらないというのに。なのに、

過去と同じ場面に出くわすと又、条件反射的にまず身を構えてしまう後遺症を引きずっているのを思い知る。

だがこの頃はすぐさま、それを打ち消す強さがサッと出てきて 『ドンマイ、ドンマイ』と快活な心持で是正できるように

なったと感じている。

そうだよ。 それと符号するのだろうと思いあたることもある。

なんと、神棚に向かって、毎朝、二礼二拍一礼の儀をおごそかにも親しむようになったことである。

言うまでもなく量的飽和が質的変化を生ずる、いわば自然な流れがそうさせて、つまりは日常の自然な営みとなったわけだが、

なればなったで、こんな自然なしかし当事者にとっては有りがたい行為を、どうしてこの歳になるまで為そうとあるいは

為さしめようとする力が働かなかったかなと、(遅きに失したとは言わないが)わずかながら悔いている。

凡愚ゆえとおのれに帰するしかない。

 

でも守られているナと、又思う。

だからもう、先に逝きし亡き妻の愚痴は言わぬ。先に逝ったとか、まだ生き残っているとかは決して些末な出来事ではないが、

さりとて、やはりここまで生きてみて初めて感ずるわけだが、大騒ぎすることではない。

この世で、出会い、恋をし、結婚しただけで奇跡であり、それは何とも感謝すべきことなのだ。

たしかに神様から見れば、善人づらしているぼくは悪因悪業の数々を働いた不届きものだったのかもしれぬ。

わけても、妻に先に逝かれてからというもの、ついていなかった。

『ついていなかった』なんて言葉は他人様のせいにしているようでもあるし伝法で好きではないが、一言で言えば

ついていなかった=神様とは縁がなかった、という意味合いでは事実だから仕方がない。

そのついていなかったと自嘲気味に括る15年余もやっと終焉を迎えたようだ。やはり時間は救いだ。

 

自分の人生を幾時代に区分できるとしたら、まず最初に迷わず、この「ついていなかった」15年余は、さまざまな意味において、

ぼくには試練の時代と名付けるだろう。

文章構成法的に言えば起承転結の「転」の章であろうことは疑いない。

それは屁理屈ではない。だから頭ではなく、自然に心身でそう感ずるのだ。

 

 

そしてこれから述べるのは、ぼくの希望であり期待感ではある。

70歳から先は、ぼくは少年に還る。

ただし、かつての少年よりはいくぶんか老成した少年になっても萌えいずる新緑のごとき純情さでわが身を委ねよう。

 

 

再ならず三度、守られているナと感ずる。 かく書き綴っているが、この頃やっと本音というのか――逆説的になるが、

ややもすればその場の勢いに任せて結果的に心にもないことを書いてしまったことがたびたびあったが、その愚かさに

やっと気づき、己のウソに対して強く戒めるようになった―――素直に己をこのヴァーチャル世界に吐き出せるコツを

身につけつつあるのも幸いである。 とにかく己のなすことが、生きている歓びを織りなす縦糸横糸であれかしと願っている日々なり。